新潟医療生協 木戸病院の歴史
新潟医療生協 木戸病院の歴史
新潟地震と相次ぐ水害、急激な都市化による様々な問題は
住民による「誰もが安心して、健康的に暮らせる、まちづくり運動」へ。
今は美しい田園が広がる東区・亀田郷は、ひとたび大雨が降ると田は水没し芦沼と言われる地域でした。沼と化した田で腰までつかりながらの稲刈りは困難を極めました。この問題に取り組んだのは、新潟医療生活協同組合の基を作った佐野藤三郎です。佐野藤三郎は農家に生まれ、両親が苦労を重ねる姿を見て、何とかしようと決意し、類いまれなる行動力で農地改革を行い、昭和23年に栗の木排水機場整備が完成し、腰まで浸かりながら田植えや稲刈りを余儀なくされた湿田は乾田によみがえり農家の夢が叶いました。
時代はすすみ、昭和25年から昭和50年の四半世紀の間、市に集中する人口増で農地の宅地化が進みました。亀田郷の耕作面積の亀田町・横越町の全耕作地に匹敵する2000ヘクタールが宅地化されました。芦沼を美田に変えた亀田郷の開拓者精神は、脈々と農家の間に受け継がれていくが新しい住民と農家との間で様々な問題も噴出しこのことが後々の地域づくりに繋がるきっかけとなっていきました。それは、住民自身による地域づくりであり、住みよい地域環境を住民自ら考えることでした。
そして、昭和39年(1964年)の新潟地震に加え、昭和41年〜42年には下越地域を2年連続の水害が襲い生活基盤に大きな影響をもたらしました。これをきっかけに「安心して暮らせる地域づくり」と「地域に安心してかかれる医療機関を」との思いが新潟医療生活協同組合を生み出す原動力となりました。
戦後まもない頃から「地域農業の振興、農民の地位向上」のために第一線で運動してきた佐野藤三郎、佐野誠一、三膳秋坪の三氏は、地域の願いである「安心して暮らせる地域づくり」と「地域に安心してかかれる医療機関を」の思いを真正面から受け止めました。地域の思いは「住民自身が取り組まなければ解決しない」と病院を核とした「医療と福祉のまちづくり」が必要であると考えた三氏は、医療生協による病院づくりを決意したのです。 昭和50年に1,100名の組合員によって新潟医療生協が設立されました。
昭和51年に新潟医療生活協同組合 木戸病院が開院。
木戸病院は
(一)働くものの病院をめざす。
(一)庶民の生命と健康を守る砦として豊かな地域づくりに貢献する。
(一)みんなに愛されること、その実現のために皆さんと共に進めること。
この三つの理念を基本に運動と事業が取り組まれました。
開院時4名の常勤医師、88床でスタートでしたが、開院当初から4名の保健師を配置し保健予防活動に力を注ぎ
①時間外診療の実施
②付き添いに頼らない看護
③適時給食(家庭と同じ時間に食事を提供)を実施するなど、当時としては画期的な取組みを行い大きな反響を呼びました。 昭和61年には木戸病院は312床の総合病院機能をもつ病院と成長しました。
平成23年に新しい木戸病院を新築移転。 病気だけでなく、誰もが毎日を健康的に暮らせるためのフィットネス機能を備えた病院は地域医療を担う新しい病院のかたちを表現しています。
腰まで水に浸かりながら田植えをする様子
先人の努力により湿田がみごとな美田に生れかわりました。
旧 木戸病院外観
旧 木戸病院は医療・介護・住まいの複合施設「なじょも」に生まれ変わりました